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 「絵を描くのに、写真を使わないんですか?」と尋ねられることがある。私の答えは、「使わない」だ。絵の取材は、基本的には写生を描くか、ただ見るだけで、写真は撮らない。特に写真を否定しているわけではなく、私があまりうまく使えないだけかもしれない。実際、写真を使って描かれた作品で、好きな絵もある。私も学生時代に何回か写真を使って描いたことがあったが、写真に引きずられすぎてうまくいかず、以来やめた。
 写真というのは、光学的にレンズの前にあるものを全て写しとってしまうため、どうしても不便に感じることが多い。絵だったらここは省いて描くのに、とか、ここは線一本で強調出来るのに、とか、特に色の印象は、スケッチした方が的確に自分の感じたものを残せるように思う。構図も、絵だったらこれで決まるのに写真だと決まらない、という場合が多い。絵の構図と写真の構図は、全く別のような気がする。
 そして何よりも、写真を撮るよりも自分の手で写生、スケッチを描く方が圧倒的に楽しい。大げさな言い方かもしれないが、自分が後天的に身につけたことの中で、最も深い喜びを与えてくれるものは写生だ、とさえ思っている。写生とは、ペンや筆を執って目の前にあるものを描き写すこと、それだけのことなのだが、こんなに楽しいことは他にちょっと思い当らない。
 日本画家の前田青邨が「スケッチについて」と題した文章の中で、「スケッチすることは、私にとって実に大きな喜びだ。自分の眼に美しいと感じられたものの、その美しさを自分の筆に描きとどめる喜び。殊にまた、対象の気持ちがよくとれた時の、何とも言えず深い喜び…。(中略) スケッチは殆ど毎日欠かさず続けてきた。それらを取り出してみると、何十年前のものでも、写生した時の気分がまざまざと蘇り、実に楽しい。そしてその中から、さまざまの画想が浮ぶ。」(『三彩』昭和23年3月号)と書いている。絵を描く人は、多かれ少なかれ、この気持ちに共感するのではないだろうか。
 写生には、ものの美しさ、面白さを自分の眼で見出し、自分の手で描きとどめてゆく、という何ものにも代えがたい楽しさがあるのだ。

 学生時代には、土屋禮一先生と奥村土牛の素描集に惹かれて、写生の教科書のように繰り返し見て参考にした。土屋先生の風景素描は、移ろう空の表情や、水たまりに映る日射し、雲や山や木立の魅力を、パステルや水彩、墨の色を駆使して伝えてくれたし、土牛の素描は、鉛筆のシンプルな線で、動物でも花でも風景でも人物でも、そのものの要点を的確につかんで見せてくれる。
 こうした素描は元来、他人に見せるために描かれたものではないが、対象物を的確にとらえた線や色彩は、それだけで見るものを十分に楽しませてくれる。
 大学を卒業してからは、岩波文庫のゴッホの手紙を読んでいて、その中に添えられたゴッホの素描の素晴らしさに目を見開かされた。ゴッホの絵は十代の頃から好きだったが、年齢と共にその作品の素晴らしさを何度も再発見させられる。
 最近、ある恩師が、「ゴッホってあまりにも有名だから今さらゴッホは良いってわざわざ言いにくいんだけど、でもゴッホって改めて見るとすごくいいよね。」と語っていた。「ゴッホが描いたものって、自分のベッドとか椅子とか、ふつうそんなものわざわざ描かないようなものまで描いてるけど、ゴッホが描くとすごく良い絵になるんだよね。あれ見てると、ほんとに特別なものを描く必要なんてないんだな、と思った。」と。私もこれには同感だった。

 ゴッホの友人だった画家のエミル・ベルナールは、ゴッホの素描について次のように書いている。「字を書く同じやさしさで素描出来たらというのが彼の大望であった。素描こそ芸術の基礎であり、その上に画が成立しているとの旧(ふる)い、しかしほんとの考え方を持っていた。」(『ゴッホの手紙』硲伊之助訳・岩波文庫)
 ゴッホの油絵は、ほとんど素描の延長のようですらある。ゴッホの絵のテーマは、畑の片隅や、自分のベッドや椅子、果ては入院した病院の窓や廊下まで、本当に身の周りの何気ないものが多い。それでいて、そのものの持つ魅力を強力に引き出し、傑作が出来てしまう。そうした力は、もともとゴッホの持っていたものかもしれないし、ミレーなどの先輩画家から学んだ部分、そして読書家だった彼の文学の好みから来たものも多かったかもしれないが、対象を見つめ、写生を繰り返す中で身に付けていった力でもあったと思う。

 ゴッホの素描は、本当に素晴らしい。対象を格別に強調するわけでもなく、何の飾り気もなくそのままに描き出しながら、それを見つめるゴッホの眼差し、気持ちが強く刻み込まれ、見る者の心を動かす。それは取りも直さず、ゴッホ自身が、椅子でも廊下でも麦畑でも、描く対象にそれだけ強く共感する気持ちを持って筆を執っていた、ということでもあろう。その一方的に共感する力の強さが彼の人生を難しくした、とも言えるかもしれないが、その力があれだけの絵を生み出したのかもしれない。
 オランダで描いた人物の素描は、暗く、重厚な中に、描かれた人の生活全体への深い共感を感じさせるし、南仏で描いた風景の素描は、ペンと黒インクのシンプルな点と線だけで、あふれるような陽光が、画面全体を輝かせているように見える。
 ゴッホの油彩は絵の具が絵の具を越えたものとなって輝いているが、素描もまた、紙とインクが単なる紙とインクを越えた力強い輝きと深みをもって迫ってくる。素描もここまで行くと、心の深さを刻み込んだ宝物のようである。 

ゴッホ1

ゴッホ2


 写生の要点は、対象をよく観察する、ということに尽きる。見る手段が描くこと、ともいえる。物を見るということを、五感を通して感じ、味わうことが写生である。ガラス瓶でも、木立でも山でも同じように、手で触れるような気持ちで描いてゆく。山や木立は手では触れられないから、目で触れるようにして描く。
 私は、戸外で描く写生が特に楽しい。その場の空気が体の中を吹き抜けていく気持ちよさを感じるとき、自分もその土地の風や空気と一つになったように感じるとき、写生もうまくいく。そうして体を通して感じたものがあって絵が生まれる。
 日本画家の山本丘人は、「絵を描くことは、時間をかけて思い出す事」と言っていたそうだ。その場で写生をして、時間を過ごし、アトリエに帰ってから、またその時のことをゆっくりと思いだしながら筆を執る。思い出せないことは、そもそも自分の印象に残らなかったことであり、描く必要のないことなのだ。はじめから写真を使って描き出すと、その必要のないものまでがすべて出てきてしまって、自分の印象が何だったのかが分かりにくくなってしまう。私が学生時代に写真を使ってうまくいかなかったのは、そのあたりに原因があったのかもしれない。
 写生は見る手段であり、体に何かを感じさせ、覚え込ませる時間であり、ペンと紙だけで始められる最高の楽しみでもある。私はこれを写真に譲り渡すことはできない。
 2018年1月

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