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トップ〇屏風絵と自然光
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トップ〇屏風絵と自然光
 昨年描いた屏風絵を広い和室に置いて見てみたい、と思っていたところ、新潟市の砂丘館(昭和八年に建てられた日銀新潟支店長役宅。新潟市が買い上げ、現在一般公開されている)で展示され、八畳間を二つつなげた座敷で見る機会を得た。座敷で屏風を見ると、画廊で見ていた時よりも周囲の空間に自然になじみ、見え方は大きく違った。
 まず見る位置が違う。座敷の畳の上に座ると視点が低くなり、台の上に展示するとはいえ立って見下ろす視点になる画廊よりも、屏風の中の絵の世界に入りやすい。
 また、スポットライトを使って絵を照らし出す画廊に対し、座敷では広い縁側からまわり込んでくる自然光主体で見ることになる。ジグザグに折って立てた屏風を自然光で見ていると、大きく影ができたり、色が柔らかく溶け合って曖昧になるところが出来たりと、見え方が均一でなくなる。しかし、そうしたことが絵に動きと自然な深みを生み出してくれる。

byoubu
六曲屏風「六月の風」 砂丘館(新潟市)での展示 2018年6月 
「屏風の制作」を合わせてご覧ください。

 私は、学生時代に大学の古美術研究旅行で観た京都の古い寺院の障壁画を思い出した。
 金地院の等伯や真珠庵の蛇足の絵も良かったが、何といっても天球院方丈の狩野山楽、山雪父子による襖絵が忘れられない。
 六部屋あるうち、表の三部屋の襖は金地に極彩色の絵、裏の三部屋の襖は水墨で描かれていた。この金と墨の対比がまず新鮮だったのだが、特に表の部屋の金の襖の印象が強い。
向かって右の部屋の襖絵は、部屋の隅から朝顔の蔓が大きく両側に伸び広がり、籬にからまりながらたくさんの花をつけている。中央の部屋は竹に虎、そして圧巻は左側の部屋の梅の木の絵だった。
 特に、正面の襖の山雪の絵。奇怪にうねる梅の枝が小鳥を一羽乗せて襖を右から左へと大きく横切り、その脇には雉が一羽とまっている。S字にうねる枝は、小鳥、雉と一体となり、一見忘れがたい緊張感のある美しい形を作っている。
 部屋に日の光が射し込むと背景の金地が輝き、絵はこの美しく印象的な輪郭だけを残して暗く沈みこむ。日が少し陰ると、今度は金の背景が黒々と沈んで絵が明るく浮き上がり、こちらを睨むような雉の目つきや花の色が見えてくる。
移ろう日射しと共に、絵がその表情を大きく変え、部屋全体がまるで生きているかのように息づいて見えるのだ。
 障壁画とはこういうものなのか、この部屋に座ったまま、光と共に移り変わってゆくこの絵をいつまでも観ていたい、と思った。ここでは、光や時の流れが大きな意味を持っていた。おそらく、この絵を描いた山楽と山雪も、絵を静止したものとしてではなく、立体的な室内空間の中で時の流れとともに見られるものとして描いたのではないだろうか。博物館のガラスケースの中に平らに並べて展示され、均一な照明に照らし出された襖や屏風は、半分死んだも同じなのではないか。この時の印象は、今も忘れられない。

 また、同じく学生時代に聴いた、日本美術コレクターのジョー・プライス氏の講演会でも同じことを思った。
 氏は、日本の古い絵を観るには光が重要だ、電気の光ではなく、描かれた当時の光と同じ自然光や蝋燭の光で見るべきだ、として、さまざまな光の下で撮影した江戸時代の屏風絵をスライド写真で示された。自然光や蝋燭の光で見ると、絵に奥行きと立体感が生まれ、絵師が表そうとしたものがよく見えてくる。何よりも絵が数倍魅力的に見えるのだ。
 プライス氏はカリフォルニアの自邸に、障子のようなスクリーンを通して大きく自然光を取り込んだ環境で日本絵画を鑑賞する部屋を作っている。そして、日本の人達にもその素晴らしさを知ってほしい、という思いから、東京国立博物館で2006年に開かれたプライスコレクション展では、一部の作品をガラスケースなしで、自然光とはいかなかったが、変化する照明の下で展示し、いかに絵の表情が美しく変化するかを見せてくれた。作品全体を隈なく明るく照らし出すだけが良い方法とは限らない、ということだ。

 美術館、博物館というもの自体欧米から入ってきたものかもしれないが、日本美術にはもっと日本美術の特性に合った展示方法が工夫されて良いのかもしれない。
 日本の美術は、「移ろう」ということに積極的な意味を見出してきたように思う。多くの美術館は、いつ行っても変わらず、同じように作品が見える、ということに価値を置いているように見えるし、それはそれで一つの在り方だと思うが、移ろう、変化する、という価値観をもっと展示に反映させる美術館があっても面白いのではないかと思うのだ。
 プライス氏がロサンゼルスの美術館にコレクションの一部を寄贈して日本館を作った時には、自然光を採り入れ、照明を付けないようにしたという。しかし、美術館の人達に照明を付けてほしいと言われて押し切られ、照明を付けることになったそうだ。照明を付けて美術館の人達は喜んだが、観客はゆっくり絵を観なくなってしまった、とプライス氏は語っていた。
 自然光の入る和室で床や畳の上に座り、屏風や掛け軸を鑑賞できる場がもっと多くあると嬉しい。今回私の屏風が展示された砂丘館の座敷は、窓ガラスが紫外線をカットするようになっていて、美術品の展示にも配慮されていた。

 長谷川等伯の松林図屏風は、大きく余白を取った水墨の空間が美しい。例えば雨間の柔らかい日射しでこの屏風を見たらどのように見えるだろう。絵の中にも霧雨が降っているように感じられるかもしれないし、絵の中に立ち込める霧が正に動いているように見えるかもしれない。
 金地に群青や緑青の鮮やかな尾形光琳の燕子花図屏風はどうだろう。夕日に金が輝くと、ただ豪華に美しいだけではなく、描かれた花のはかなさまでも感じられるのではないだろうか。
 名作として残されている屏風をガラスケースと電気の照明から解放し、移ろいゆく自然光の中に置いたらどのように見えるのか、興味は尽きない。
 襖絵や屏風絵は、移ろいゆく時や光と共にあって、初めてその本当の姿を現してくれる気がする。現実には難しいこともあるかもしれないが、とても夢のある話ではないかと思う。

 2018年6月

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