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トップ〇情報としての絵
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トップ〇情報としての絵
情報としての絵
 
 先日、印象派の名作を集めた展覧会を見に行ったときに、写真撮影許可になっていたため、モネの睡蓮の大作の前で多くの人が写真を撮っていた。撮る時のカシャカシャという音がひっきりなしに響いてうるさいうえ、次々と絵の正面に陣取って撮る人が多く、落ち着いて絵を観られる環境とはほど遠い。これでは街なかの雑踏で絵を観ているのと変わらないと思った。
 絵の写真を撮っている人たちを見ていると、みな写真を撮るとそれで満足するのか、すぐに出て行ってしまう。自分の目で絵をじっくり鑑賞している人などほとんどいない。
 海外の美術館から名作を借りて来て展示し、多くの観客を集め、しかし、やってきた人たちの多くはただ撮影を済ませるとすぐに帰ってしまう。自分の目でじっくり見たいと思って来た人は、撮影している人たちに妨げられて落ち着いて観ることが出来ない。これではいったい何のための展覧会なのか。
 私はこの展覧会を見ていて、絵というのも短期間に次々と発信されては消えてゆく多くの情報の一つとして消費される時代になっていくのか、いや、もう完全にそういう時代になってしまったのか、と思った。
 モネの描いた睡蓮は、人の心を揺さぶる絵画ではなく、名作という記号として消費されているだけだった。

 二十年も前になるが、学生時代に観たある現代作家の展覧会で感じた違和感を思い出す。
 私は、絵の作者は自分の描いた絵を通して、鑑賞者一人一人と向き合う、と思っている。ある知人がルーブル美術館のレンブラントのコレクションを観て来て、「レンブラントの絵を観ていると、レンブラントと対話が出来るんだよ。あれはすごいねえ。」と話していたことがあったが、正にそのように作者と鑑賞者は、時代や地域を越え、絵を通して個人的に一対一で向き合うのだ。そこに絵の面白みもある。
 しかし、その現代作家の絵を観ていると、作者が私にきちんと向き合ってくれない感じがした。作者の視線は私に向き合わず、絵の前に立っている私を素通りし、私の後ろにいる「もっとたくさんの人達」に向けられているように感じられてくるのだ。
 つまり、作者が作品を通して鑑賞者と一対一で向き合わず、不特定多数の人達に向かって、同時に効率よく語りかけようとしている。しかもそれを、意図的に大々的にやろうとしている。これが私の感じた違和感だった。

 指揮者の小沢征爾は、作曲家武満徹との対談の中で、音楽はパーソナルなもので、音楽の演奏も一対一が基本だ、と語っていた。沢山の聴衆がいても、一対一の関係がたくさん生まれるということであって、一対大勢ではない、ということだ。そして、一対一である以上、それぞれの関係は一つ一つ違ってくる。悲しい曲調の作品であっても、その悲しさの感じ方は一人一人異なり、受け止め方の幅があるのだ。パーソナルで、受け止め方に幅がある、ということじたいに価値があり、大事なのだ。

 もちろん、絵でも音楽でも、不特定多数の人達に向けて発信する、という在り方も昔からあっただろう。そうした発信のしかたは情報伝達の一種であり、皆が同じように受け止められるように、記号として発信するということだ。
 その一方で、美術も音楽も、単なる記号としての情報伝達を越え、人の気持ちに深く、個人的に働きかける力を持つ、というのが、人類の築き上げてきた文化なのではないだろうか。
 しかし、現代においては、多くの物事が情報であることを強く求められるようになってきている。情報である以上、パーソナルな受け止め方の違い、などというものはできるだけ少なく、同じように正確に伝わるほうが良い、ということになる。
 ここで抜け落ちてしまうものは、絵や音楽の鑑賞で最も大切であったはずの、そしてその上にすべてが成り立っていたはずの、深く個人的な共感である。音楽も美術も、本来一対一で鑑賞者の気持ちに語りかけ、深い個人的関係が成立するところにこそ価値があったはずだ。
 個人的共感が抜け落ち、不特定多数に向けて発信される作品は、皆の注意を同じように惹こうとしている。そのような絵の在り方は、どこか貧しくはないか。

 私が美大進学を考えていた高校二年生の冬、日本画家杉山寧の大きな回顧展(1992年・東京美術倶楽部)を観に行った。この時に並んだ多くの絵の中で、私は「エウロペ」という作品に魅かれた。
 エウロペは、ギリシャ神話に出てくる若い王女である。海辺で花を摘んで遊んでいるところに、彼女に一目ぼれしたゼウスの化けた立派な牡牛が現れ、エウロペがその背中にまたがると、雄牛はエウロペを乗せて海へと走り去り、とうとう海を泳ぎ切ってクレタ島へと泳ぎ着く。エウロペとゼウスとの間には三人の息子が生まれ、彼女の名前はヨーロッパの語源にもなっている。
 杉山寧が何故エウロペを題材に描いたのか、私は知らない。この時の会場にはギリシャ神話を題材にした絵は他になく、画風からいっても題材からいっても異色の作品だった。
 大きな絵で、グレーの空と黒い海を背景にして、金茶色の雄牛の背に全裸のエウロペが腰かけ、髪に手を当てて遠くを見ている。他には何の道具立てもない、簡潔な絵だ。
 この絵を観てその時私が感じたものは、寂しさ、重苦しさと同時に、気持ちよさのようでもあり、不安と期待、孤独と親密さ、感情を排したように無機質、無表情でありながら、情感を感じさせる。様々な感情を喚起しているようでありながら、はっきりとした一つの感情を指し示しているようでもある。その感じを、私は心の奥でいつか感じたことがあり、よく知っているようで、しかし同時に心の中の全く新しい部分を開拓されている、とも感じられる。
 この絵の伝えてくる感じを言葉で表そうとすると、相反する言葉をたくさん並べることになる。そして並べれば並べるほど、感じたものから離れていく。
 つまり、この絵を見た感じは、言葉にならない。この絵の伝えてくる感じを知ろうと思ったら、この絵の前に立つしかないのだ。言葉ではなく、画集や印刷物で見るのでもなく、ただこの絵の前に立って、言葉にならないこの感じを、見て感じるしかないのだ。
 ただそこにある、というだけで、一枚の絵がこんな力を持ち得るのか、その前に立つ人の心に、ただここにあるというだけで、こんな風に働きかけてくる絵というのはすごいものだ、と17歳の私は思った。
 私は、そんな絵の力に憧れた。

 心理学者の河合隼雄は、次のように書いている。
「主観の世界にわけ入ってゆくのはなかなかよい方法が見つかりにくい。ユングが錬金術の説明について述べたように、『曖昧なものを曖昧なものによって説明する』方法を取らざるを得ない。というよりは、ある客観的事実をできるかぎり、そのまま伝達しようとするのではなく、こちらの主観の動き(ムーブ)に相応する動き(ムーブ)を相手の心の中に起こす、というようなコミュニケーションを試みなくてはならない。それはどれだけ正確に伝わったかということが問題になるのではなく、どれほど相手にとって意味ある動き(ムーブ)を生ぜしめたか、ということが焦点となってくるのである。」
 これは、私が絵について感じているのと同じことだ。
 しかし、主観を主観として心で受け止めるのには、受け止める側にもそれなりの労力や時間がいる。
 詩人の大岡信は、「丹念に対象に付合って、対象を理解し、知情意の諸能力によって対象を愛撫するという態度は、何か時代錯誤的なものと思われているらしい節さえみられる。」と書いていたが、その時代錯誤的な労力が求められるのだ。
 個人的に魅かれた作品に、時間をかけて共感を深め、心の中に感じるものを育て、そこから自分だけの深い意味が生み出されてゆく。これはしかし、豊かさということの本質でもあると思う。
 記号のように情報伝達的になった絵を、短時間で効率的に消費する、ということは、人の感性にも画一化が求められ、豊かで複雑で、個人的な気持ちを失ってゆくということだ。
 
 美術館が経済的に成り立つためには、観客を多く集めるための宣伝も、SNSでの拡散も欠かせないことなのかもしれない。しかし、一人一人が自分の目で作品を見つめ、自分の心にその印象を深く留めて帰ることのできるような展示のあり方を、もう一度考えてほしい。人の心の豊かさや、人類の築き上げてきた文化の重みを深く感じることができる場、それこそが美術館なのだから。
 本当は、そうした美術館の役割が、今ほど大切になっている時代もないはずなのだ。

2018年4月
 
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