トップ〇起き上げ胡粉と毛利先生
起上胡粉(おきあげごふん)と毛利先生

 日本画を学び始めたとき、まず絵の具の溶き方に苦労する。顔料と、接着剤となる膠(にかわ)液を皿の上で練り合わせるのだが、特に誰しも失敗を繰り返すのが、白の絵の具、胡粉だ。
 胡粉は、カキやハマグリ、ホタテの貝殻を数年間野積みして塩分を抜き、風化させて原料とする。これを砕いて水と混ぜ、石臼で挽いて粉末にし、精製し、天日乾燥させたものが売られている。やわらかく、他では得られない美しい白になり、他の色と混ぜても落ち着いた暖かみのある色ができるため、胡粉を愛好している人は多い。お雛様など人形の顔や、能面を白く塗るのにも使われている。
 しかし、胡粉にはもろく剥がれやすいという難点がある。私が大学に入って最初に描いた絵は、胡粉で描いたところが割れ、剥がれてしまっているし、表具屋が絵を修復したり表具したりする時にも、特に絹に描いた胡粉は落ちやすいという。そのため、胡粉を溶くときには粉末状の胡粉と膠液を練り合わせていったん団子にまとめ、絵皿に何度も叩きつけて膠と胡粉をしっかりとからませる(百たたき)。そして改めて水で溶き下ろして使うわけだが、この時の膠の加減や分量、手際などが悪いとうまくいかず、割れたり剥がれたりする。何度も経験を積んで加減をおぼえるしかない。

 もともと胡粉という言葉は、鉛から作る白色絵の具、鉛白(えんぱく)を指した。「胡」という字は、中国の西方を指す。西域から来た顔料ということで、昔は中国から輸入していた。しかし、この鉛白には、変色する、という難点がある。 
 また、鉛白のほかに、白土も大胡粉と言われ、白色絵の具として使われた。法隆寺の壁画には、近くから採れる白土が使われているという。
 こうして、鉛白や白土が白色絵の具、胡粉として使われていたのが、室町時代ごろを境に貝殻に変わる。江戸時代以降は、白色絵の具はほとんどが貝殻胡粉になる。現在は胡粉と言えば、貝殻のものを指す。この背景にどういう事情があったのか、私は知らないが、海に囲まれている日本では、貝殻が手に入りやすかった、ということは大きいだろう。そして、このもろく、剥がれ落ちやすい粉をしっかりと画面に定着させるため、さまざまな工夫がなされ、百たたきという方法も生まれたのだと思う。

 この胡粉を更に強力に接着させる方法が伝わっている。起上胡粉である。
 これはまず、胡粉と丹(たん・鉛から作るオレンジ色の絵の具)を混ぜて膠液で練って団子にし、百たたきして壺に入れ、軒下や地下で長期間寝かせて作る。寝かせている間にいったん腐敗し、白玉団子のように柔らかかった胡粉団子は、カチカチに硬く固まる。丹と混ぜるので、初めはオレンジがかったピンク色の団子なのだが、寝かせている間に不思議と真っ白に変わる。これを砕いて乳鉢で磨りつぶし、改めて新しい膠液で溶いて使う。
 こうして作られた胡粉は接着力が増し、胡粉の欠点であるもろさがなくなり、堅牢になる。丹を混ぜるのも、昔の人の経験則からきているのだろうが、胡粉の性質を堅牢にするためらしい。盛り上げて立体的な形を作っても崩れないため、画面上に桜や菊の花の形を盛り上げる装飾的な表現にも多用された。そのため、起上胡粉という。

 私が起上胡粉を知ったのは、毛利武彦先生が、「腐れ胡粉」という名前で書いていたのを読んだからだ。
 毛利先生は戦時中の1942年、22歳で入隊、翌々年には台湾へ派遣される。1946年に復員するが、親友が満州に出征して亡くなってしまったことを知る。その親友の遺品として譲り受けた絵の具の中に、この腐れ胡粉があったということだ。
 先生は、1986年に、長く使わずにいたこの腐れ胡粉を溶いて、「花―鎮魂」と題された桜の大作を描いている。私は桜の絵を描いたことはないが、桜を描くのは難しそうだと感じている。清少納言は枕草子の中で「絵にかきおとりするもの」として、撫子、菖蒲と並んで桜をあげている。見た目にとても華やかできれいな桜は、いざ絵にすると、どうしても見劣りしてしまいがちなのだろう。
 毛利先生の桜の絵は、正面切って桜を描いて桜に迫った数少ない傑作の一つだと思う。金を背景にして壮麗に咲き誇る桜に、まさに鎮魂としか言いようのない強い思いのこもった絵だ。
 大学を繰り上げ卒業させられて出征し、親友二人を戦争で奪われた先生は、その親友の一人が残した腐れ胡粉を使って、今まさに満開で散る寸前の花を、大画面の中に、たくさん、たくさん描き込んでいる。
 毛利先生は、腐れ胡粉について次のように書いている。
「しかし、まだ手つかずの棒状の胡粉が四個残っていた。彼が出征する直前に溶いた胡粉を壺につめ、床下に埋めていったものだという。『腐れ胡粉』ということばは知っていても、伝承の絶えたような現在、これがそれなのか解らない。いつか試してみようとしまっておいたのだが、もう、いま私が代りに使わなければ、彼がながい自分の不在の時間をあがなう為に、土にねかせていった無量のおもいは、まったく空に帰してしまうであろう。
 一昨年、期するところがあって、桜の花を二百号に描いた。彼の掌紋も残っていそうな、その骨のような塊を乳鉢に入れて、砕く前に合掌し、膠を入れて溶きだすと、鄙びた臭いがただよい、自然薯のようなとろみが出て、花弁に置くと盛り上がっても中央が凹まず、画面を洗ったりしても、落ちないのであった。むかしの障壁画や琳派の胡粉が剥落せず、かえって現代のものの方に故障が多いことを思った。その作品に、あえて『花―鎮魂』と題し、感傷にすぎるかとおもいながら、散ってゆく花びらを描きそえずにいられなかった。その三片のなかのひとひらを、ひそかに彼に擬したのである。」(毛利武彦画集・求龍堂・1991年)

 桜の名作としてもう一つ思い出すのは、長谷川等伯の息子、久蔵が若干25才で描いた京都智積院の襖の桜だ。この絵も、金を背景にして桜の花が胡粉で盛り上げられている。ところどころ崩れてはいても、四百年という時を経て盛り上げが残っているのは、やはりこれが起上胡粉(腐れ胡粉)だったからだろう。

 毛利先生は、教授をしていた武蔵野美術大学を退職する1991年1月に、腐れ胡粉を作って研究室スタッフと共に校内に埋め、四年後の95年7月に掘り出し、その時に研究室によって詳細な報告書も作られている。毛利先生は、腐れ胡粉作りを大学の中で継続してほしいと考えていらしたようだが、残念ながら続いていないようだ。
 退職時の講演で、腐れ胡粉作りについて「日本画を大事にしなきゃいかんとか、東洋的世界観がどうだっていうことよりも、この胡粉という一番日本画の基本の材料の中に込められたある思いと、それから地球の時間っていうんでしょうか。そういうものとが重なっていって、そうすれば皆が伝えたいと思っている本当の日本画というものが、そして死んだ友達の遺志も生きていくんじゃないかなと、そういう風に思った。」と語っている。
 私は、武蔵野美術大学在学中に研究室の書棚の片隅に「胡粉塚報告」と題されたこの報告書を見つけ、コピーした。そして、五年前と三年前の冬に、この報告書を参考にして実際に起上胡粉を作り、壺に入れて庭に埋めた。掘り出して使ってみると、本当に堅牢な胡粉になっている。これから自分の制作にも使ってみようと思っているが、毛利先生の言葉を読むたびに、退職に際し、わざわざ大学で腐れ胡粉作りをした毛利先生の気持ちを考える。
 日本画の学生が、一年生の時に胡粉を作って埋め、四年の卒業制作の時に掘り出して使ったりすれば、とてもいい勉強にもなるし、毛利先生と、亡くなった先生の親友の遺志も継がれると思うのだが…。
 あの貴重な報告書は、あまり知られずにまだ研究室の片隅に置かれているだけなのだろうか。広く読まれているといいけれども。

以下の資料を参考にしました。
・色の博物誌 江戸の色材を視る・読む(目黒区美術館・2016年)
・揉みから紙(揉みから紙保存会・2002年)
・毛利武彦画集(求龍堂・1991年)
・胡粉塚報告(武蔵野美術大学日本画学科研究室・1995年)

起上胡粉(腐れ胡粉)作り
胡粉1
胡粉と丹を混ぜる。胡粉は安いものでよい。

胡粉2
膠液と練りあわせて団子にし、百たたきする。膠は、黒っぽい質の悪いものを使う。
これを壺に入れて密閉し、床下や土中などで寝かせる。

胡粉10
壺の中に入れた胡粉団子。しばらくして出してみると、カビが生えている。

胡粉3
数年寝かせて取り出した胡粉団子。白くなっている。周りの汚れを軽く水洗いし、乾かしてから使う。

胡粉4
乳鉢に入れて砕く。

gofun5
乳棒で磨る。

胡粉6
皿に取って膠液と練り合わせる。

胡粉11
団子にまとめ、百たたききする。

胡粉7
百たたきした団子を、水でのばした状態。

胡粉8
必要なだけ別の皿に取り分け、少し膠液を足して使う。

胡粉
起上胡粉で盛り上げたところ。木の板の上に直接塗って盛り上げてある。

胡粉9
普通の胡粉による盛り上げ。真ん中がへこんだりしてきれいに盛り上がらない。

毛利先生については、以下の記事もあります。
合わせてご覧ください。
毛利武彦先生

2018年3月

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