トップ〇燕の空気と横山操
 私は現在、新潟県燕市に住んでいる。2010年4月に引っ越したので、丸七年になる。東京に生まれ、三十数年間も住んだ私がなぜ突然新潟県に引っ越したかということについては、理由があるとも言えるし、ほとんど何の理由もないともいえる。

 引越し先の燕市では、これもいろいろな縁があって、市の外れの見渡す限り田畑が広がる地域に居を定めることになった。引越した翌日、家の裏手を散策した時、360度どこまでも広がる空の大きさ、その大空をゆったりと渡ってゆく雲の雄大さに圧倒された。どこまでも田んぼが続く越後平野の空は、本当に広い。しばらくはスケッチに出ても、この空間の広さをどう捉えて描いていいかわからず、焦点の定まらないような写生を何枚も描いたが、二、三ヶ月続けているうちに、少しづつ捉えられる実感が出てきた。

燕風景

燕風景3
                                    燕風景スケッチ

 燕市を初めて訪れたのは、引越す少し前の三月半ばで、まだ雪が残る寒い季節だったが、この土地の空気は日本画家、横山操の描いた絵の中の空気と全く同じだ、と感じた。これが燕市の忘れられない第一印象だ。まだ田の土を起こす前の荒涼とした大地と吹き抜ける冷たい風。

 大正9年に生まれた横山操が幼少時代を過ごしたのは、現在燕市の粟生津(あおうづ)というあたりだ。17歳で東京に出て住み込みで働きながら油絵を学び始め、その後日本画に転向し、二十歳の時に川端龍子の主宰する青龍展に初入選するものの、その年に召集されてしまう。二十代の十年間は日中戦争、太平洋戦争、五年間のシベリア抑留によって奪い去られた。
 三十歳で復員した後も東京で画家として活動したため、新潟で生活したのは十代半ばまでということになる。しかし、その絵には生涯故郷の空気を描き続けたのだ。新潟をはじめ、高度経済成長期真っ只中の東京、京都やパリ、ニューヨークなど、さまざまな土地を題材に描いているが、どの絵にも同じ空気、越後平野の風が吹いている。意識的に描こうとしたというよりは、ほとんど体質のように絵の中に出てきてしまうのだろう。数年前、県内の美術館で横山操の展覧会を見た後、美術館の外に出ると、そこには今見てきた絵の中の空気と同じ空気があり、忘れられない体験だった。

 横山操が新潟を描いた風景画というと、枯れ木の立ち並ぶ冬の風景が多く、印象も強い。実際に新潟で生活していると、冬は広い平野が見渡す限り雪で一面真っ白になり、それとは対照的に、夏には広い田んぼが明るい日差しの中、見渡す限り濃い緑になる様子がとても印象深いのだが、青々とした故郷の風景というのは全く描いていない。身を切るような寂しさの漂う冬景色をたくさん描いたことは、横山操の出生にいろいろと複雑なことがあったということと関係があるのか、ないのか。今のところ私が横山操の絵で緑色を見たのは、雑誌の表紙として描いた小品だけである。
 こちらに来てから見た珍しい絵として、漁村の屋根の上に翻る鯉のぼりの絵がある。とても小さい画面に、横山ならではの緊張感のある鯉のぼりがとても美しい絵だ。子供時代には、間瀬(まぜ)という漁村にある実父の別荘で過ごすこともあったというから、あるいはその時の印象だろうか。

 昭和46年、51歳の時、横山は脳卒中のため半身不随で利き手の右手が使えなくなり、亡くなるまでの最後の三年間は左手で制作していたという。そうした困難の中、弥彦山の見える故郷の地にアトリエを構えたい、という希望を持っていたということだが、残念ながらこれは実現しなかった。
 絶筆として残されている水墨の風景の小品は、冬の木立の中へ白い道が細く続いてゆく印象的な作品だ。私は、数年前に新潟県内をバスで移動していた時に、これとそっくりの風景が車窓を横切っていくのを見た。絵の中の風景と全く同じ景色を新潟で見つけたこの時、横山の故郷への強い思いを感じ、深い感慨を覚えた。
 学生時代に東京で横山操の回顧展を見たとき以来、この水墨の小品は私の頭の片隅にずっと残っていたのだが、なんとなく武蔵野あたりの風景ではないか、と勝手に思っていた。横山操はこの絶筆にタイトルを付けていないし、そもそも未完成であったのかもしれない。だからこの絵が新潟の風景だという確証もないだろう。しかし、私はこの細い道の続く木立は横山の心の中に生涯宿っていた故郷の風景であると信じて疑わない。
 豪快で力強い大作をたたきつけるように次々と世に送った横山だが、この左手で描いた小品の水墨画は、心の奥に深くしみとおってくるような静けさをたたえた、格別に印象深い作品だ。そして横山操は、この細い道を木立の奥へと一人立ち去ったのではないかと、思わずそんな気がしてくる絵なのだ。


2017年8月

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