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トップ〇矢立
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トップ〇矢立
 日本画を学び始めたとき、日本画のオリジナリティとは、画材だろう、と思っていた。ところが、調べてみると、日本画で使われる岩絵の具の上質のものは古くから中国より輸入していたというし、墨、紙、毛筆、絵画理論、山水・花鳥といった絵のテーマまで、どれも中国から来たものであることが分かって驚いた。日本画のオリジナリティとは何か、という面倒な話は今は脇に置き、中国人の発明には、本当に驚かされる。

 特に感心するのは、墨だ。
 墨とは、言ってみれば、インクを固形にしたものである。液状では持ち運びに不便なインクを固形にし、どこにでも気軽に持ち運べるようにした発想は、本当にすごいと思う。必要なときに取り出して、硯に水をたらして磨って使う。なんと便利な発明だろう!
 昔は、絵や字を書くようなところには、何処にでも硯の一つや二つ、必ずあったであろう。

 しかし、野外で使いたい、という時には固形では不便だ。液状になっていてすぐに使える墨がほしい。学生時代、スケッチ用にガラスビンに入ったインクを持ち歩いていたことがあるが、四国を旅行していた時にカバンの中でビンが割れて真っ黒になり、それ以来ビンで持ち運ぶのをやめた。
 次に、筆ペンを買って使っていた時期もあったのだが、墨のかすれや濃淡が自由に調整できないし、筆の穂がナイロン主体で、ナイロン独特のはね返りの強さが描き味を悪くしている。墨の色もいまいちよくない。
 
 そこで10年ほど前に矢立を買った。やはりというべきか、これが素晴らしかった。かすれやにじみも調整でき、筆の良さを十分に生かせる。筆を使うのであれば、矢立はやはり必需品であると深く実感した。自分が日常使うさまざまな道具の中でも、この矢立ほど愛用しているものは他にない。
 液状から固形になって持ち運びやすくなった墨を、もう一度液状で持ち運べるようにした道具が矢立だ。
 矢立が使われるようになったのはいつごろからだろう?日本の発明だろうか?それとも、これも中国だろうか?
 小さな容器の中に綿を詰め、そこに墨汁を染み込ませて持ち歩けるようにしただけの簡単な道具だが、スケッチにも、出先でちょっと絵や字をかく、という時にも便利で、一度使いだすと二度と手放せない。筆を収納する筒が付いているタイプのものが一般的だが、私が使っているのは墨壺だけの小さな長方形の矢立である。長いほうの長さが6センチくらいだ。
yatate3
 この、ライターのようなシンプルな形も気に入って、筆と一緒にペンケースに入れて持ち歩いている。墨がかすれてくると、新たに墨をすってまた入れる。一度墨を満たしておけば、かなり描くことができる。

 矢立を使うようになってから、携帯用の筆もいくつか試してみたが、今はこの二つの筆が気に入ってよく使っている。
 携帯狼毫筆(曹素功蓺粟斎・赤茶の軸の長いほう)と、
 プチ筆(吉田書道具店・黒い軸の短いほう)。
 書き味は全て獣毛で作っている前者のほうが好みだが、どちらもそれぞれの良さがあり、両方持ち歩いている。
 どちらもデザインが良く、携帯狼毫筆は、紅色の木の軸に、牛骨と牛角で白と黒のアクセントが入っている。
 プチ筆は黒と金で、キャップを取って後ろから差し込むと、筆の穂が出てくる。
 こうした小型の筆で、描き味が良く、デザインも良い、というのは貴重で、持っていてうれしい文房具だ。
携帯筆 yatate2
 六色の固形水彩セットと、水を入れたビンも一緒にペンケースに入れ、これで何処でもスケッチが出来る。

 墨と筆でスケッチというと、鉛筆みたいに消して描き直せないから困るでしょう?と聞かれる。しかし実際には、墨と筆でスケッチすると、鉛筆よりも的確に形が決まることが多い。修正できない線を引いている、という緊張感が、物を見るときの集中力を高めているのだと思う。筆を下す前、ものを見る時間がたとえ一瞬であっても、その一瞬の集中力が違うような気がするのだ。だから、形の狂いが少ない。
 それに筆は、鉛筆やペンよりも柔らかいため、穂先のコントロールに運動感覚が強く要求される。鉛筆でスケッチするときには、対象を正確になぞる感じが強くなるのだが、筆を持って物を見るときには、視覚が体の中で運動感覚に変換され、筆の動きとして出力される感じがするのだ。ペンを持って正確に描く、というスケッチよりも、毛筆の運動感覚でとらえたスケッチのほうが、ものの感じを的確につかめることがあり、形態の正確さを超えて対象の特徴や動きを直接的に捉えるという面白味が増すのだ。
 矢立を手に入れてスケッチするようになってから気づかされたことは、とても多い。


 矢立を買って使うようになってから、ペンや鉛筆の使用を完全にやめ、すべて筆で書くようにしていた時期が二、三年ある。
 「昔の人は日常の筆記用具が筆だったから、ペンやパソコンで書いてる現代人は、到底昔の人の筆使いにはかなわないよ」と言う人がいる。ならば、自分は意地でも日常の筆記用具を筆一本に絞ってやろう、と思ったのだ。現代の生活の中では、完全に筆だけ、とはいかない場面は確かにあるが、心の中では完全にペンを捨てた。常に身近に矢立を持ち歩き、税務署に出す確定申告の書類など、どうしても筆だとまずいもの以外は、手紙も、買い物のメモも、仕事の記録なども、もちろんスケッチやエスキースも、全て筆で書くのだ。
 やってみて分かったことは、確かに毎日使わないと本当には筆になじむことができない、という事実だ。
 自分では、鳥獣戯画を模写したりしてそれなりに筆にはなじんでいたつもりだったのだが、毎日あらゆるものを筆で書く生活を始めて数か月後、筆先の扱い方を手がおぼえ、ペンや鉛筆よりも、筆のほうが圧倒的に書きやすくなったのだ。
 明治生まれの祖父が、生前「筆記用具で一番書きやすいのは筆だ。」と言っていた。当時は、まさか、と思って聞いていたが、今は私も「確かに一番書きやすいのは筆だ!」と声を大にして言いたい。
 柔軟なものはコントロールが難しい。しかしいったんコントロールできるようになってしまえば、硬いものよりも柔らかいもののほうが、はるかに楽なのだ。それに筆は、書くたびに、心の中に心地よい解放感をもたらしてくれる。こんな筆記用具は筆しかない。
 硬いペンや、ただ打つだけのキーボードには、毛筆のように人の心に柔らかく作用してくるような要素は求められない。

 また、同じ文字を書くにしても、書くたびごとに様々に表情を変えられる、というのも毛筆の面白さだ。キーボードで打ち出す文字は、フォントを変えない限り毎回同じ文字は同じ形、同じ表情で、変化を楽しむ、という要素がない。表情の多彩さを生み出す、というのも毛筆の面白さであり、楽しみなのだ。

 残念ながら矢立を使う人は今や少ないらしく、矢立を専門に作っている、という職人ももういないようだ。私の住んでいる燕市は矢立とキセルの産地として有名だった土地で、地元の資料館にも矢立が展示されているが、やはり今作っている、という職人はいない。

 矢立の衰退は、日常に毛筆を使う、という文化の終焉を意味しているのかもしれない。
書や水墨画、日本画などの作品制作においては、今後も毛筆が使われ続けるだろう。しかし、そうした作品制作とは別に、日常の筆記用具としての毛筆、というものは失われていく運命なのだろう。矢立は日常に毛筆を使う人しか必要としない道具だ。
 毛筆の文化と共に失われるものは計り知れない。
 残念なことだ。

sketch
                                                                         2017年4月

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